クライミングからBCスキーまで、この地球にある山と自然を全力で楽しもうとする、とある人間の軌跡。

2026年2月18日

氾濫する”記録” のデメリットについて考える

event_note2月 18, 2026 editBy W.Ikeda forumNo comments

突然だけど、いったい記録ってなんのために公表するのだろうか。

誰でも簡単に記録を投稿・閲覧できるいま、逆に「記録を出すことの弊害」について考える必要が出てきているのではないかと思い始め、モヤモヤをまとめた雑記です。


北海道で


1月友人の結婚式に行くついでに前後の休みを合わせて、4泊5日で北海道に行ってきた。冬の北海道は5年ぶり。ドライブしたり、ローカルスキー場に行ったり。宿は基本的に友人宅を使わせてもらった。

ある日、その友人と里山BCに行くことに。


目的の山は友人宅から車で10分程度。札幌からは1時間半程度の場所にある。

標高は700m、ハイクアップしてもせいぜい標高差で500m・2時間程度とまさに北海道の里山という感じ。駐車場も除雪終了点にぽつんと停める形だ。


山を滑っている最中、2人パーティーに出会った。聞けばスイスからとのこと。

インバウンドのスキー客がニセコやトマムのスキー場に、さらにはメジャーなBCエリアに多く来ているのはすでに周知の事実ではあるけど、なぜこんな山へ?

(こんな、と言っては山に失礼かもしれないがごくごく普通の里山なのだ。しかもニセコなどからは2時間程度と、かなり離れたエリア)


尋ねてみたら北海道のBCのルートをGPSログなど詳細な情報付きで案内しているサイトがあり、それを参照してきたそう。

実際に見せてもらうと北海道のありとあらゆる山のBCの記録が英語の解説付きで公開されている。(Hokkaido wildというサイト。)

なるほどこれを見ればこんなローカルなエリアにもインバウンドが来るのかと納得するとともに、どこか落ち着かない気持ちも感じた。


集合知的な“ガイドブック”の増加と山の「テーマパーク」化


ヤマレコ、YAMAP、the crag 、ブログ、SNS、いま山の記録や情報は様々なプラットフォーマーの助けもあり猛烈な勢いで拡大している。しかもGPSログや写真、駐車場などその詳細さは以前と比べ物にならない。

自分の周りでも多くの人が利用し記録も投稿しているし、こうしたログを投稿・参照する登山者が今はかなりの割合を占めていると思う。(かく言う自分もこのブログなどで記録を発表していた一人だ。)


もちろん古くから山の雑誌などで登山やBCのコース紹介が丁寧に載ることはあった。

ただし前述のインターネットでの情報の急増に伴い、その対象となるルート数は雑誌の紙幅に限定されることなく、際限なく拡大している。


そして集合知のように個人の記録が無数に蓄積されることで、オンライン上で”定番ルート・定番コース”的なものが形成されている。そして膨大な記録は山のガイドブック的な役割を果たすことになる。

(たとえばYAMAPなどは多数のGPSログを重ねることで登山道やバリエーションルートの軌跡を可視化させているし、ある山が何月に上られているかといった集計機能もある。これを見れば登り易いルートもわかるし、何月がシーズンかも一目瞭然だ。)


国内の多くの山でこうした濃厚な“ガイドブック”が形成されるいま、登山・bcが観光的な流れを辿ることは必然のこと。

登ったり滑ったりといった手段は違えど、事前にある程度知っているものを案内を頼りにめぐるという点において今や登山やBCといった行為が観光化・山がテーマパーク化している。

この点はみんな薄々気がつきつつもスルーしている、とても重要な点な気がしている。


“記録が氾濫する”ことのデメリットを考えませんか?


そして遅くなったけど、ここからが本論。

記録が広まることの恩恵は多分にある。しかしそういった情報があふれているからこそ、「記録が氾濫することののデメリット」についてももう少し積極的に議論するべきではないだろうか。

情報の拡大→ガイドブック的なものの形成→テーマパーク化による不利益についてもしっかりと考える必要があるのではないかと。

まずこのブログでは差し当たり現在、記録の氾濫により国内で起きているデメリットとして、2点メモしてしておこうと思う。

・テーマパーク化はプレイヤーの需要のみが先に拡大している点

・道中で未知のものに出会ったり、想定外の地形が出てきて驚くといった体験の機会が減少し、予定調和的な性格が強まっている点


デメリット① 需要のみが先走って拡大している


1点目について。

「この絶景が見られる!」「こんなおしゃれな山小屋が!」「この斜面すごい」、記録が広まることでいろんな需要がSNSやブログにより高まってはいるが、それは必ずしも受け入れる側の山や地元住民の供給を前提にしていないということ。

需要のみが高まることで供給が追い付いていないと、積雪期の天神尾根の大渋滞、八方の二俣の駐車場問題、岩場のアクセス問題などといった形で表出してしまう。


北海道でも一部のBCのローカルエリアが有名になってしまい駐車場問題が発生してエリア全体が駐車禁止となってしまった事例もあるという。


この需給(といっても集落に近い里山などは、給=キャパシティーが0に等しい)のバランスを考えずにルートや記録のみが独り歩きすることは、下手をすると北海道の上の例のようにエリアを閉ざしてしまうことにつながる。


岩場のアクセス問題ではすでに言われてきたことだが、登山・BCについても記録を公表する際はもう少しこういった点について考え、慎重に行うべきではないだろうか。


SNS社会ではバスるスピードも早ければ、忘れられるスピードも速い。

何も考えずになんとなく記録を出すと、「流行っているから」・「よく目にするから」といってトレンドになり多くの人が押し寄せ、アクセス問題が発生したりすることも。

最悪の場合、以前から細々と大切にエリアを楽しんできた既存のユーザーも含めてその山域をを追い出すことにもつながる。

有名になる→多くの人が押し寄せる→アクセス問題が発生し禁止→他の人気な場所に移りその場所は忘れ去れられる

このようなサイクルのように、果たしてそのように山やエリアを消費していくことがいいのだろうか?


容易に記録が投稿でき、広めることができる今だからこそ、「記録を公表する」という行為がどのような悪影響をもたらしうるかについては慎重に考える必要があるのではないだろうか。極端に言えば、記録の公表には”公表の責任”も伴う点を理解する必要があるのではということ。

(※もちろん「記録は日記的なもの」というユーザーも多いと思う。ただし手元で日記として書くことと、日記的なものとして書いたものが公で見ることができる状態になっていることではその後の影響が全然違ってくる。この違いは重要だと思う。)



デメリット②予定調和の範囲の急拡大


2点目。記録を見る・読む・知ることは、未知を解消する(=既知にする)ことだ。一つ知ることによって一つ未知を失う。


登山業界でも、安全登山のためにも事前に情報収集を!と呼びかけられているのだし、調べたら何十何百と記録出てくるし、参考になるし…、そもそも記録を調べることは「いいこと・推奨されること」とされている感もある。(例外はオンサイトチャンスを尊重するクライミングの記録くらいだろうか?)


しかし大量に膨れ上がる記録に飲み込まれていくと、登山自体がどんどん「テーマパーク・観光」的なものに飲み込まれてしまう。

決まったスポットで決まったルート。予定通りの行動。

それでいいのであればよいが、未知の出会いや新たな発見も楽しいし、登山・BCが好きな人の中には一定数「いまの記録に頼りっぱなしの登山・BCなにか違う」と思う人もいるのではと思う。



そういった人たちに残されている道を考えてみると2つくらいある気がする。

一つは記録がぜんぜん出てこないニッチな山域に行くこと

調べても情報が出てこないのだから、ちゃんと未知を楽しめる。デメリットはそうした山域がえてして行きにくいor大変ことくらい。(それが魅力なのだが)


他の選択肢もある。それは「あえて調べない」選択をすること

氾濫する記録から離れて、地形図や本から山を選んでみるなど、あえて情報の流入量を減らして山に行ってみる。

社会的には未知の山域でもないし、初登頂でもないが、一人の人間にとっては未知なものは未知だし、その一回性や未知性を楽しむことができる。

“知りすぎる”ことから離れると、それぞれの体験が新鮮で楽しむことができる。この魅力ももっと認知されていいのではないだろうか。


記録ってそもそも何のため?


つらつらと書いたが、だれでも簡単に記録が投稿・閲覧できるようになった今、改めて「記録の意味」をせき止めて考え直す必要が出てきているのではないだろうか?というのが本稿の問題提起だ。

記録というのは先人の知識や足跡を後世に伝えるという点で非常に重要な財産であるし、便利な面・助けられる面は多分にある。


ただし、媒体がネットになり、記録が容易に広まることにより、キャパシティーが少ないローカルな山に人を大量に呼び込みアクセス問題につながったり、細々と既存のエリアで楽しんでいた人たちを追い出すことにつながるなど、悪影響もある点を見過ごしてはならない。


山の記録を投稿することができるプラットフォムが充実し、誰でも気軽にネットでGPSや写真などリッチな情報と共に記録を共有できるようになってきた昨今。

改めて”記録を公表する責任”について、さらには山を”消費”せずに楽しむためには何ができるかいついて、一人一人が考える段階に来ているのではないだろうか。

そしてこれらの記録とどの程度の距離感で付き合っていくのかも合わせて考える必要が出てきているのではないだろうか。利用者としても発信者としても。(自戒を込めて)