緊急事態宣言も解除されwithコロナの世界線に世の中にシフトしてきました。
都道府県間の移動制限もなくなり、すこしずつ日常が戻ってきたように感じます。
しかし、それと同時にまだ大きな違和感が残ります。
最初にまず宣言すると、この記事はwithコロナの「新しい生活様式」それ自体に対する懸念を表明するためのものです。
この番組、面白かったです。 |
アガンベンの問い
昨日NHKのBSのスペシャルで哲学者の國分功一郎さんがイタリアの哲学者のアガンベンの問いを紹介していました。(番組へのリンクはこちら)
その問いとは
「生存以外のいかなる価値も認めない社会とは何なのだろうか?」
という問い。
この問いが紹介された背景を軽く紹介すると、イタリアでコロナが広がっていた最中、コロナウイルスによって亡くなった方の遺体に遺族さえも面会できないことへアガンベンが反発したときに提示した疑問がこれになります。
つまり、感染拡大防止の理念のもと、死者が「葬儀される」権利をはく奪されていると指摘して、「死者の権利の喪失」への問題意識をこのような問いに例えたのです。
リスクに悩み続ける山ヤ
一方で、上の問いは山をやっている人間にとって別の意味も持つように思えます。
本質的に命への危険性を内包する行為を忌避するゼロリスクの社会
= 生存以外のいかなる価値も認めない社会
と解釈すれば、どうでしょうか?
特にクライミングや登山など潜在的な危険性を排除できないような行為が、「危ないから」といった理由で禁止されてしまった社会とは一体何なのだろう?という問いにも読めてこないでしょうか?
命が大切で何よりも大事ならば山なんて行かないことが最適解で、お家でぬくぬくしていればいいのです。
しかし、それにも関わらず私達山ヤは山に行きます。
なぜでしょうか?
答えは簡単です。
「山やクライミングに生存以外の価値を見出しているから」です。
[ただ生き延びること]と[命を失うリスクを負ってでも行為を達成すること]の選択をして、その結果後者のほうに軍配が上がった場合、私たちは山に行っています。
もちろん、この選択は山ヤなら必ず後者を選択すると言っている訳ではありません。
天候や自身の技量に応じて変動するリスクについて常に思考をし続け、どの程度までリスクを許容することができるのか考え各自が判断することで、ある日ある場所で登山をする/しないだったり撤退する/しないを決めるのです。
個人的にはこの思考こそが山の醍醐味であり本質に思えます。
いわば、命を懸けて真剣に考え悩み続けることは、登山の重要な要素だと言えるでしょう。
ガイド登山
一方で、そのような複雑な思考を覆い隠す性格が強いものとして、ツアー登山が挙げられます。
ツアー登山でクライアントは思考や判断をガイドへ委ねます。
「安全を確保してくれる」ガイドは、一切の判断を管理することで、極論クライアントが思考停止であっても一切問題ないのです。
実はここには自分の反省もあります。
富士山ガイドを始めたころは、自分も撤退判断のときにお客さんに
「安全第一ですので」
と言って説得していたことがあります。
しかしながら、この説得は実は根本的に矛盾している話だなと今になっては思います。
なぜなら本当に「安全第一」であれば、山を登らないことこそが最良の選択肢なのですから。
ガイドの仕事はせめぎ合うリスクをどう評価し、どこまで許容するかを判断することこそにあるのです。
決して「安全第一」を全うするためにいる訳ではありません。
このことに気づいて以降、撤退判断の時、お客さんへは
「○○というリスクがあり、このリスクがあまりにも高くて受け入れられない」
と説明するように気を付けています。
コロナ禍とゼロリスク社会
話が逸れたので、コロナ禍に戻します。
先ほどのアガンベンの問いが象徴する通り、今回のコロナ禍では、「生存の価値」を重視する方向に社会は大きく傾きました。
みんなが命を守るために多くの規制を受け入れ、ひいては感染対策が社会的な道徳になりました。
「未知の感染症」を相手に人々は逆説的に生存の社会的価値を最大限に高めたとも言えます。
コロナ禍での登山・遭難が猛烈なバッシングに逢ったのもこう言った社会の道徳意識の変容が背景にあるでしょう。
現在、withコロナにあたり様々なものが再開しつつありますが、そのためのルールとして実に滑稽なものも多くあります。
例えばライブハウスで観客が大声を出さないように定めたルールなどはその最たる例です。
しかし、「生存の価値」という視点で見ると、この奇妙な規制も実に自然な流れです。
つまり、「生存」の社会的価値が強化されたことにより、道徳・規制の基準が変わっただけに過ぎないのです。
そして、その社会の価値基準の変容によってコロナ前に当たり前だった様々な行為が侵害されつつあります。
先ほど挙げたライブハウスもそうですが、観客の入らないスポーツなどその数は数えたらきりがないでしょう。
私は、この変化を「だって感染対策しないといけないからしょうがないじゃないか」と済ますのは大変に危険なものに思えます。
「意識」についての仮説
いきなり少し大きな話になりますが、「意識」とは何でしょうか?
もちろんこの短い記事で「意識」は何か長々と述べるのことはしません。
しかし、面白い見地としてここではイーグルマンの仮説を紹介します。
イーグルマンの仮説とは、2律背反の選択を仲裁するプログラムこそが「意識」だとする仮説です。
例えばカモメは卵を守る性質とともに、赤色を攻撃する性質があります。
そこで赤色の卵を置くと、カモメは混乱し暴れだすのです。
このような2律背反の状況に置かれたとき、どちらかを選択することができないのが動物であるのに対し、選択ができる人間に意識を定義したこの仮説がもし正しかったとすれば、逆に選択をしなくなった時に人間は意識を失うことも示唆しています。
例えば日々のルーティンワーク(通勤など)を無意識でやっていたことなどありませんか?
「ふと気づいたら、何かをやっていた。」
そういった無意識は思い悩むことがない=選択がないから達成されるとこの仮説は主張します。
ゼロリスク社会の先に何があるか
コロナ禍前でも、少しでも怪我をする可能性のある遊具は撤去され、管理されていない土地には「立ち入り禁止」の紙が張られ、ライフガードがいない浜辺には「遊泳禁止」の看板が掲げられるような動きはありました。
危ないものは排除し、あらゆるリスクを最小化していく社会は着実に推し進められ、行為主体自身が思考しなくとも、怪我しない・事故が起きない・感染しないゼロリスク社会が少しずつ実装されていきました。
そして今回のコロナ禍はその規制を世論の支持のもと合法的かつ大幅に推し進めたと解釈できるでしょう。
つまり、ゼロリスク社会に向けてさらに大きな一歩を踏み出したと言えます。
ゼロリスクの社会とはどういった世界なのでしょうか?
どう行動しても怪我をしない・死なないようにできた社会は理想郷でしょうか?
「どう行動しても怪我をしない・死なないようにできた社会」は逆に言えば、「どんな行動を選択しても被害を被らない社会」です。
つまり、ゼロリスク社会を推し進めた先に「選択」は意味を失い、さらに言えば「意識」は消滅するのではないでしょうか。
何故なら、どんな選択をしても人は命を脅かされることはなく、怪我すらしないのですから。
そのような環境で人は真剣に「選択」をすることは何くなるのではないでしょうか。
真の思考停止(いわば社会の構成員のツアー登山化?)はここに於いて生まれる気がしてなりません。
アガンベンの問いの答え
ここで冒頭のアガンベンの問いに戻ります。
「生存以外のいかなる価値も認めない社会とは何なのだろうか?」
もしイーグルマンの仮説が正しければ、この問いの答えは何かもうわかるのではないでしょうか。
つまり、その先には
「無意識」
の社会が待っていると考えることも出来るのではないでしょうか。
だれも思考せず、悩むことのない、安全で完璧な社会が。
伊藤計劃の小説「ハーモニー」で描かれているような社会が待ち受けていたとしたら、このコロナ禍の変容はとても恐ろしい1歩にも見えてきてなりません。
「安全第一」を問い直す
以上、今回のコロナ禍を一歩離れていろいろ考えてみました。最後には「意識の消滅」などとてもSFチックなことを言いましたが、あくまでこれはイーグルマンの仮説が正しければの話。
しかしいずれにせよ、今回のコロナ禍で完全に安全なゼロリスク社会が一歩近づき、その社会は思いもよらないディストピアかもしれないと少し気づいて頂ければ、この世界の動きも少し違って見えてくるのではないでしょうか。
最後に山の話になりますが、山は先に述べた通り、常に命をめぐって葛藤し選択を続ける行為でもあります。
ゼロリスクの社会が着実に近づいている今、もう一度その行為の性格を見つめなおして、人間性や意識に思考を巡らせば、登山・クライミングなどといったものが人間的でとても素晴らしい行為に見えてきませんか?
そして、「選択と葛藤」に登山の魅力を見出すのであれば、「安全第一」や「かけがえのない命」という綺麗ごとに正面から向き合う必要も同時に感じるのです。
命を危険に晒しながら、葛藤し続け目標を達成することに登山行為の本質があるのであれば、世間がきれいごとに覆われた不気味な世界になる前に、ゼロリスク社会の論理に完全に侵食される前に、山で耳にする「安全第一」や「かけがえのない命」という言葉の孕むダブルスタンダードに向き合う必要があるのではないでしょうか。
リスクの先に価値を見出す登山こそが、このゼロリスク社会への奇妙な変容に一石を投じることができるのではないかと、私は考えています。
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