コロナの影響で世界は変わっている。
リモートワークやオンライン飲み会、生活のあらゆることがインターネットの空間へ移行している。
僕はこの世界がとても怖い。
人間同士のコミュニケーションは必要な時だけ。
そのほかはSNSでの文字。
今までの世界にあったカオスさがなくなっている。
たまたますれ違った人、小耳にはさんだ会話、居酒屋で偶然隣になった人
そういったものが「コロナウイルス対策」の名目で全部なくなっていく。
確かに感染対策は大事だ。
だけど、僕はこの生活様式のパラダイムシフトは2つの意味で人間性の根幹を揺さぶる大事件だと思う。
一つ目は間の消滅だ。
ハンナ・アーレントは「人間の条件」で”間”の重要性を説いた。
人々が互いに関わり合い、他者に働きかける関係性の場が人間性の拠り所となる。
だけど、コロナ対策の名の元、たまたま隣にいた人との会話、ひょんなことから知り合った人とのおしゃべり、そういったものがどんどんなくなっていく。
必要な人としか話さない。用事がないと会話しない。
人同士の関係の”間”はいまや必要最低限度に縮小されている。
二つ目は現実世界の軽薄化。
オンラインで済ませることは済ませる。家の外の現実世界の行動は最小限にする。
そういった傾向をコロナウイルスは作り出した。なぜならそれが感染拡大を防ぐから。
もし娯楽や仕事が全てインターネットで成立するなら、withコロナ時代に「現実世界などいらない」といった風潮はより強まっていくだろう。
「なぜわざわざ外出するの?家で何でもできるのに?」
そう考える人が大多数になる世界もそう遠くはないと思う。
ゲームどうぶつの森が売れたのもこの点で必然に感じる。
僕は、この動きが「人間性の破壊」に思えてならない。
最低限のコミュニケーションと最低限の現実世界に人間性は残るのだろうか?
社会は「コロナ」対策といってこの動きを躍起になって推し進める。
確かに感染対策としては合理的な動きだろう。
だけど、僕はここでは人間性についての議論が置き去りにされている気がしてならない。
確かに命は大事だし、かけがえのないものだ。
だけど、「生きること」を絶対的な価値として、それを脅かすものを全て排斥した世界に人間性は残ってるだろうか。
今の社会、この議論があまりにも軽んじられている。
感染対策の名目で人間は自らの人間性を自殺させようとしてはいないだろうか?
生きて、社会を回すコマになるために自らを捧げようとしてはいないだろうか?
映画マトリックスのように、人間が社会を回すために飼育される時代は、実はみんなが考えているよりすぐそばに迫っている気がしてならない。
僕は、この世界の流れが怖い。
そして、そもそもこの不気味な変化に声を上げる人があまりにも少ないことがさらに怖い。
「コロナ対策で○○がオンライン化されました!やった!」
「オンラインで仕事すると効率的!ラク!」
「感染対策をしながら○○しましょう!」
という話の前に、本当にそれでいいのか考える必要があるのではないか?
この”感染対策至上主義”とも言える動きそのものの是非を問う議論を忘れてはないだろうか?
感染対策に反することは全て社会の迷惑だからダメなのだろうか?
感染対策のためなら不要な行動はすべからく制限されていいのだろうか?
なんでもバーチャルに移行していいのだろうか?
そしてそこに人間性は残っているのだろうか?
社会システムの変化はwithコロナに向けてより加速してくだろう。
そしてその世界の変化はきっと不可逆なものとなるだろうし、人の価値観を根底から変えるものになるだろう。
だからこそ、今もっとみんなで議論するべきだと思う。
まだうまく言語化できていないけど、今感じる違和感を忘れずに覚えておきたい。
時代遅れなのかもしれない。古い価値観なのかもしれない。
それでも
居酒屋でまわりから聞こえるガヤガヤした声、頬を打つ雨、散らかった教室、通りすがりの人の表情、人ごみの空気、山小屋で一緒になって会話した人達、
そういったカオスな現実世界を僕は大事にしたいと切に思う。
コメントを投稿