今年のゴールデンウイークはCovid-19の影響でどこへも行けそうにありません。
家でゴールデンウイークを過ごすなんて記憶にないくらいです。
家で悶々としていたのですが、ふと思いついて「登山の責任論」という文章を書くことにしました。
これは自身がBCスキーやクライミング、アルパイン、登山、そしてガイドとして様々に山と携わってきたときに感じた違和感を言語化しようとして記したものです。
スキー場の厳しい管理、空虚な自己責任論、スポーツ化する登山、遭難報道の炎上、現在のコロナ騒動での登山の自粛要請など、現在の登山に少しでも違和感を持っていたら、ぜひ読んでいただきたいです。
登山と社会がどう関係しているか、「責任」をテーマに様々な角度から分析する自信作です。
そして、自分の登山観のまとめともなっています。
果たして大した記録も持っていない、ただのふつうのスキーヤー兼クライマー兼ガイド兼大学院生の自分がこんなことを書く資格があるのかはありませんが、それでも書いている内容は確かだと自認しています。
ただし、分量が少々多く、A4で41枚分、3万5千字程度なので、このブログに掲載したら読みにくくて仕方ないです。
そのためGoogleDriveにPDFのデータをアップしています。
以下のリンクから全文をぜひ読んでください。
pdfデータはこちら
このブログの記事では目次とまえがき、各章の概要だけ記しておきます。
このGW、ぜひご一読を!
<登山の責任論:目次>
§1 はじめに
§2 批判の論理:登山者の反省と社会との付き合い方
2-1 炎上のフレームワーク
2-2 合理的な批判と非合理的な批判
2-3 炎上の構造:強い責任論
2-4 非登山者からの合理的な批判に向けて
§3 登山の自己責任:強い責任論と無責任
3-1 「強い責任論」と「弱い責任論」
3-2 責任のインフレと無責任
3-3 責任のインフレからの解放を目指して
3-4 登山に希望はないのか?
§4 登山はなぜ反社会的なのか:個人主義と共同体の「克服できない対立」
4-1 自由主義と民主主義と日本
4-2 功利主義と完全自由主義
4-3 登山のイデオロギー
4-4 登山と社会の矛盾
§5 登山者の選択肢:「強い個人」・「弱い個人」・もしくは両方を拒否する
5-1 「強い個人」と「弱い個人」の正体
5-2 責任を金銭化する保険
5-3 カウンターカルチャーは消費文化として成立する
5-4 登山の社会的価値
5-5 日本の登山の行く末
§6 社会に順応する登山:Covid-19の時代
6-1 山小屋の写真は不快?
6-2 登山の自粛要請・禁止の背景
6-3 それでも山に行くリバタリアン的登山者
6-4 自粛期間中の遭難事故バッシング
6-5 アフターCovid-19の登山への危機感
§7 おわりに:「責任」を問い直す
§1
はじめに
今回の論考は、登山における責任論をテーマにした論考である。近年、登山やフリークライミング、アルパインクライミング、アイスクライミング、バックカントリースキー・スノーボード、ゲレンデスキー、トレイルランニングなど山での活動(以上まとめて本稿では“登山”と表記する)の人気は増加し、以前にも増して山は大衆化された。
しかし、それに付随して様々な問題も噴出している。遭難報道への猛烈な批判、スキー場の過剰な管理とバックカントリースキーヤーの軋轢、空洞化する自己責任論、大衆化され整備の行き届いた登山道、岩場のアクセス問題など登山者にとって現代の日本社会は様々な「息苦しさ」を感じる環境となっていることは間違いない。
本稿の目的は、この「息苦しさ」の正体を「責任論」をテーマに探ることにある。登山文化と社会との関係は現代の市場経済を介してとても複雑な形をとっている。そして登山と社会の複雑な関係こそが、登山者にとって「息苦しさ」を生む直接的な原因であることを様々な観点から分析することで、今後登山の可能性について議論したいと考えている。
Covid-19の感染拡大下、登山の自粛要請や禁止が各地で叫ばれている(2020年5月4日現在)。今こそ登山という行為とその責任を考え直す契機ではないだろうか。大袈裟かもしれないが、本稿が登山と社会の関係を理解する一助となれば幸いである。
~各章の概要~
§2 批判の論理:登山者の反省と社会
この章では遭難報道のSNS上での炎上をテーマに、なぜ遭難の直接の被害者ではない非当事者が遭難報道を「非難」できるのかを考える。非難の根底にある感情が、登山者自身に内省と構造問題の検証を怠らせることを示す。また社会学者の北田暁大の「強い責任論」の概念を導入するとことで、遭難報道批判を引き起こす背景にある現代の厄介な責任観を理解する。
§3 登山の自己責任:強い責任論と無責任
§3では、§2で取り上げた「強い責任論」により、現在の登山では「責任のインフレ」を起こし、「どこにでも責任があるが故の無責任」に陥っていることを指摘する。実はこれこそが空虚な自己責任論の正体である。「責任のインフレ」という息苦しさから逃れるための方法は2つある。一切の責任を引き受ける主体(=「強い個人」)となるか、全ての責任を放棄し管理される主体(=「弱い個人」)となるかだ。実際に現在の登山はこの2つの道を辿りつつある。教科書的に“正しい登山”やスキー場の厳しい管理が「強い個人」や「弱い個人」の具現化であることを解説する。そして面倒なことに、登山者が社会から「強い個人」であり同時に「弱い個人」であれと要請されている現状を詳らかにする。
§4 登山はなぜ反社会的なのか:個人主義と共同体の「克服できない対立」
この章では、現在の日本の社会が採用するリベラル・デモクラシーを構成する自由主義と民主主義の2つのイデオロギーが根本的には相反する理念だということのアナロジーから、登山と社会の利益が相反することを分析する。登山と日本社会のそれぞれの根底にあるイデオロギーとして自由主義・完全自由主義・民主主義・功利主義を挙げ、それらの対立構造を明らかにし、登山の反社会性のフレームワークを理解する。
§5 登山者の選択肢:「強い個人」・「弱い個人」・もしくは両方を拒否する
§5は本稿の骨子となる。この章でははじめに§3で取り上げた「強い個人」と「弱い個人」それぞれが、現代の市場経済でどのように出現するかを理解する。その上で、民間の山岳保険の整備や登山のスポーツ化は社会からの「強い個人」や「弱い個人」の要請の必然的な結末であることを示す。そして、「反社会的原罪」を抱えている登山が、社会とどのように関係を築いていくことができるか検討する。社会の要請に大人しく従い、「強い個人(登山者)」や「強い個人(登山者)」になることは登山者の自由だが、そこに冒険的な登山がないことに意識的にならなければならない。そして両者を拒否することでこそ、冒険的な登山を残すことだと主張し、そのための方法を模索する。
§6 社会に順応する登山:Covid-19の時代
以上の章で説明してきた議論を使用し、Covid-19の時代の登山を取り巻く情勢を分析する。SNS上での山小屋の景色の投稿に対する批判の分析から始まり、現在の登山の自粛ブームを理解する。紛糾する登山の医療圧迫論や自粛期間中の遭難事故への猛烈なバッシング、登山再開に向けた動きをどう考えることができるのかについて議論し、最後にCovid-19以降の登山に向けた懸念を表明したい。
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