時間があったのでミルの『自由論』とアーレントにつての『悪と全体主義』という本を読みました。
これらの本を読んでいろいろと思うことがあったので、書いてみます。
(※前回の投稿に対して、「もう少し読みやすい文章がいい」っていう要請があったので、できるだけ簡単に書きます。笑)
~目次~
(1) ミル『自由論』
→ミルの『自由論』の概略
(2) 仲正昌樹『悪と全体主義』
→アーレントの『全体主義の起源』・『人間の条件』の概略
(3) 2つの本を踏まえて
→Covid-19の影響で多様性が希薄になっていく現代
(4) 登山と複雑性・多様性
→規制による登山の多様性消失の危惧
(1) ミル『自由論』
現代自由論の代表作でもあるこの書は、民主主義社会で個人が社会からいかに私的領域を守っていくかについて記したもの。
同調圧力や多数派の専制から個人の自由を守る論点は『登山の責任論』で書いたような現在の登山の置かれている境遇にいろいろと共通点を見出すことができます。
彼の主張はとても雑に表現するなら
「みんな個性的に活動できたほうが社会にとってもいいじゃん!」
っていう内容。
個人に自由があってこそ多様性が生まれ、多様性のもとで革新が生まれるという論理。
逆に言えば、各人が均質化された世界では、意見の討論や検討の機会が失われ、あらゆることが儀式的な慣習になり、そこに進歩はないと警告しているとも読めます。
(2) 仲正昌樹『悪と全体主義』
この本はかの有名な哲学者のハンナ・アーレントの哲学を簡単にまとめた本。
全体主義の生まれる起源やそのメカニズム、そしていかなる人間も権威や圧力のもとにいとも簡単に支配されてしまうといったお話。
彼女の主張で面白いのは、『エルサレムのアイヒマン』で「複雑性」に耐える重要性を説いていること。
ナチスのような環境下では、皆の思考が均一化されるとともに、討論の場としての環境も奪われたことが全体主義の生まれた根拠だと指摘しています。
物事に対して複数の視点を保つこと、そしてそれらの意見を討論する場を絶やさないことこそが、思考停止に陥らないための『人間の条件』だとも主張しています
(3) 2つの本を踏まえて
奇しくも2冊とも、多様性と複雑性の大切さを説くもの。
これらが欠如している環境では進歩や刷新が止まり、独善に陥り時には暴走すると警告しています。
共同体の価値を刷新し続ける必要については、まさに角幡唯介さんの『新冒険論』の脱システムがそれにあたる気もします。
コロナの影響でリモートワークなどが広まり、バーチャルツアーなどが広まっています。
必要な仕事のミーティングはオンラインで、それ以外の不要なかかわりを持たない社会になりました。
自分の好きな人・気になることしか目に入ってこない、ツイッターのタイムラインのような日常になっています。
このような生活に対して
「不要なものがなくなって効率が良くなった」
「ストレスがなくていい」
といった結構積極的な意見も目にします。
でも個人的な話としては、とても気持ちが悪い。
日常の多様性が薄れて、カオスさがなくなるのはなんともいやだと思っていたけど、アーレントやミルの言葉を使うなら、「複雑性・多様性」の消失とも言えるかもしれません。
「Covid-19も収束すれば日常が戻る」といった意見はよく聞くけど、正直それも危うい気がします。
人々がいくつかのコミュニティに分かれその中で均質化していく変化がCovid19によって加速されただけで、かつてのカオスさはより遠ざかっていくような気がしてなりません。
均質化し、多様性の薄れていく社会、ミルはこのような状態を「精神の束縛」と表現しています
「現代人は、世間の慣習になっているもの以外には、好みの対象が思い浮かばなくなっている」(ミル 自由論 P149)
均質化されたところに、独創性はなく、既定のパータンから選択するだけになっている。ミルはそう警告しているのです。
そして「個性の破壊に対する抵抗は、初期の段階のみで成功」(同P180)するとも言っています。
いったん個性が破壊され多様性が失われることを認めれば、その論理はなし崩し的にあらゆる多様な行為の抑圧に拡張される危険性をここでは語っているのです。
(4) 登山と複雑性・多様性
以上、とってもぼんやりとした話をしてきましたが、登山で考えてみます。
ミルは自由論で多様性が社会にとって価値があることを主張しています。例え生産的でなくても、集団と違うこと、他者と差異を持つことが価値だと語っています。
たとえばCovid-19での医療圧迫を理由に安全でリスクの低い登山のみを行い、リスクの高い登山を禁止することが叫ばれれていますが、これはある意味で登山の多様性を絶やす行為の一つと言えます。
「別に一時期そうだとしても、その先戻るから大丈夫。」なんていうのは甘い気がしてなりません。
前節でも述べた通り、こういった規制が一つでもできれば、それは”なし崩し的にあらゆる多様な行為の抑圧に拡張される”可能性があるからです。
そして、個性の破壊に対する抵抗は、初期の段階のみで成功する可能性があることも忘れてはいけません。
同じ枠組みで話をすると、登山道外の歩行の禁止も同じです。
管理や安全のために登山道外歩行が禁止になれば、バリエーションも勿論禁止になります。そしてその論理は両者で全く同じなのです。つまり一度肯定すれば、その論理の拡張は際限がありません。
Covid-19の時代、登山の管理体制はより強まる傾向にありそうです。
段階的な緩和を否定したいわけではありませんが、その中で安全や大義の名のもとに登山行動の制限がかかることは、多様性をつぶす論理を肯定する可能性があることを理解する必要があると思います。
『登山の責任論』で「登山の社会的価値」について、自分は「語る」意味を提示しましたが、実は直接的な答えを提示していませんでした。
ミルの論理を使用するのであれば、「登山の社会的価値」は社会活動の多様性の1つを担うものとして、そしてさらに登山内での多様性に求めることができるのかもしれません。
つまり登山が社会において多様な活動の一つとして成立しているとともに、登山という行為自体がそもそも多様であることこそが、「登山の社会的価値」とも言えるでしょう。
逆に言えば、そういった複雑性・多様性を損なうことは、社会的価値の損失とも捉えられます。
アーレントは「複雑性に耐える」という表現を使用しています。
これは均質化することはとても単純で楽な一方、多様で複雑な世界は意見の不一致などが発生しやすく、とても大変な状態であることを意味しています。
多様であることは容易ではありません。
規制や制限を設けることはラクですが、それは多様性をつぶして成し遂げることではないでしょう。
そういった視点でCovid-19以降の登山の動きを見るとまた面白いなと思ったりしています。
ちなみに登山の「リアル」は本当に大切なのかにつても書こうとしましたが、長くなったのでそれはまた今度。
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