クライミングからBCスキーまで、この地球にある山と自然を全力で楽しもうとする、とある人間の軌跡。

2020年8月23日

感情ベースの議論のいびつさについて。

event_note8月 23, 2020 editBy W.Ikeda forum2 comments

 

そういえば、この前の利根川本谷を「簡単」と表記したら某SNSでプチ炎上したっていう話を聞きました。(僕の投稿ではありませんが)


「自分の憧れの沢だったのにそれを簡単って言うなんて!」っていう主張らしいです。


この話を聞いて、たまたま先日友人と話をしていた感情ベースの議論の話と結びついたので、軽く自分の考えたことを整理したいと思います。



まずそもそも、何かを見て「不快」だと思ったとき、「不快」だと思った責任は「不快」な対象だけにあるのでしょうか?


例えば仮に、自分が独り身で「彼女が欲しい」と思いながら町を歩いていた時にカップルを見かけて、「リア充見せびらかすな!」と思ったとします。

その場合、勿論この感情の責任をそのカップルに帰属させることはかなり理不尽でしょう。


これは「登山の責任論」で書いた「正義の人」と似ていますが、人はよく「不快」だと思ったときにその対象だけに感情の責任を帰属させがちです。

言い方を変えれば、不快と思った原因を自信に求めることをする人はそう多くないでしょう。


だけど、僕は実際多くの場合自分に「不快」な感情の原因があると考えています。

たとえば上のカップルを見た時の感情の例でいえば、それは自分の内なるカップルへの憧れだったり独り身の寂しさなどが巡り巡って、自身に「不快」という感情を芽生えさせているのではないでしょうか。(もちろんそれだけが100%ではないでしょうが。)


以上の簡単な議論からわかる通り、僕はたとえ自分が「不快」と感じても、その感情は何かを非難することの正当な根拠にはならないと考えています。

何故なら、「不快」だけで何かを非難できるのであれば、それはとても恣意的な個人の感情の暴走を許してしまうからです。


「不快」だと感じるものを非難し、さらには排除することが正当化されてしまえば、世の中はその非難する主体にとっては居心地のいい場所になるでしょう。

しかし、当然ながら何を「不快」だと思うかは人によって多く異なりますし、全員が「不快」と思うものを全て排除したらこの世界は空っぽになってしまうでしょう。


この話は山に拘わらず、ハラスメントなど社会的な問題でも同じ構図をとります。

女性性を強調した献血ポスターが排除されたときにも僕は同じ不安を覚えました。


一部の人が「不快」だと感じたからと言って、それは何かを社会から排除するのに十分な根拠なのか?と。



しかし、このような話をすると、以下のような厄介な反論が必ず起こります。


「じゃあ今のつらい感情を我慢しろということか?それは私の尊厳を踏みにじる行為だ」


現在の社会のブームともなりつつある反ハラスメント運動なども、この反論に対して社会が十分に有効な議論ができていないからこそアンチを生み、かつそれに応じてさらに反ハラスメント運動が勢いを増しているのではないかと思います。





だけど、僕はやはりこの議論がどうしても納得できないのです。


なぜならさっきも言った通り「不快」なものを全てなくしたら社会が空っぽになってしまうから。万人にとって「不快」じゃないものなんてほぼないだろうし、仮にあったとしてもそれだけで構築される社会なんてつまらないから。

そしてさらには、誰かにとって「不快」であったとしても、それがほかの誰かにとってはとても大切なものかもしれないからです。


ここに僕は感情ベースの議論のいびつさを感じるのです。

「不快だ。ハラスメントだ。」と主張する人に、

「その感情はあなた自身のせいではありませんか?」

なんて反論した暁には、このご時世「尊厳を傷つけた」と大ヒンシュクを食らうことでしょう。


何故ならここには既に被害者と加害者のフレームワークが成立しており、その点で加害者が被害者に反論することは倫理的に許されないことだからだからです。

そしてこの被害者-加害者の構図が「被害者」による原因の排除に正当性を与えていると考えられます。


だからこそ、この構図に抗うためには「不快」という感情に被害者-加害者の単純な構図を当てはめないことが大事だと考えています。

前半で書いた通り、不快だと感じる原因を感情を抱いた主体自身にも求めることで、被害者-加害者のフレームから解放され、相互に考えを議論するスタート地点に立てるのではないかと思っています。





ちなみに、以上の議論では僕が人間の情動自体を否定しているように見えるかもしれませんが、決してそう考えている訳ではありません。

感情はあらゆる感性や行動の根源であるとともに、人生を豊かにしてくれるものでもあると僕も考えているし、信じています。


しかし、その感情だけで社会的な制度が変わったり、何かが排除されてしまったり、非難されることに強く反発を覚えているのです。


「不快」の感情を議論のベースとして置いてしまうと、その解決策は「感情を引き起こす対象の排除」にしか帰結しません

だけど、そんな社会のなんと不自由で窮屈なことでしょうか?


非難や批判・不当なものの排除自体は否定しません。

しかし、そういった行為をするなら、その議論は感情ベースではない、理性的な論理で行われるべきではないでしょうか




最後までお読みいただきありがとうございます。

長くなりましたが、備忘録として最近考えたことをまとめてみました。










2 comments:

  1. プチ炎上した、という投稿では「ゆるふわ」という単語を使っていたと思うのですが、なぜ「簡単」という言葉に変えたのでしょうか。
    どちらでもあまり意味が変わらない、または文章が締まらないという意識で「ゆるふわ」という単語をこの論考から排除したのであれば、それは良くないのではと思います。

    「ゆるふわ」には全然難しくない、ハイキングみたいな山行、ぐらいのニュアンスが含まれると私は思います。「簡単」でした、とはニュアンスが異なってきます。

    憧れ、目標としてきた沢をゆるふわと言われたら、煽られたように感じて、気分を害される方もいたんじゃないかと思います。

    SNSは個人の自由な発信の場なので、何を言うのも自由ですが、どのように思われるのかも覚悟するものだと思います。

    ハラスメント等にも言及されていますが、その問題とは近いようで、違う問題だと思います。
    上手く例えられるかわかりませんが、今回のプチ炎上した投稿は、献血のポスターでいうところ、女性はこれぐらいの巨乳は当たり前、と言っているぐらいのニュアンスを含んでしまった投稿だったと思います。なので反発を買ったのかと思います。


    正直私としては、皆さん正直に意見を言うのが好きで見てて楽しいので、どっちでもいいのですが、(利根川本谷がコンディションが良ければ難しくないというのも、自分もそうだったのでわかります。)人の感情の機微を理解してほしかったですね。

    まぁもともと「ゆるふわ」という単語は青鬼の皆さんも好んで使っている単語だと思いますし、それと同じノリだったとは思うのですが、今回はtwitterという広く目に留まる所だったのが災難でしたね。

    記事を書いてSNSで同意見を求めてるような様は、ちょっとダサいな思いましたw
    是非、強い言葉でうるせ〜〜知らね〜〜ぐらいのノリで反論してほしかったですね^^
    あ、僕は強い言葉は言えないので匿名でオナシャスw

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    1. こんにちは。匿名さん、この記事を読んでいろいろ考えて頂きありがとうございます。考えてもらうこと自体がある程度このブログの目標だったので、少しは達成できたかと思い、うれしく思っています。

      以下いろいろコメントして頂いたことに、簡単にですが返信させていただきます。

      プチ炎上した、という投稿では「ゆるふわ」という単語を使っていたと思うのですが、なぜ「簡単」という言葉に変えたのでしょうか。
      今回はtwitterという広く目に留まる所だったのが災難でしたね。
      →まず前提としてなのですが、今回のプチ炎上の件はtwitter上ではありませんので、以下のゆるふわの話は噛み合ってないかもしれませんね。

      憧れ、目標としてきた沢をゆるふわと言われたら、煽られたように感じて、気分を害される方もいたんじゃないかと思います。
      →そうです。まさにそこで気分が害されたという主張こそが今回の投稿で僕が非難した姿勢になります。例えば強いクライマーが自分の打っているルートをサクッと登って「簡単だった」とコメントしたとします。その時に多少気分は害されるかもしれませんが、それは発言者が責めを負うべきなのでしょうか?自分の実力不足、そこに帰結するだけではないでしょうか?「気分を害されたら害した側が悪い」という構図事態に疑問を呈したかったのがこの記事なので、その観点で読み直してもらえると嬉しいです。

      是非、強い言葉でうるせ〜〜知らね〜〜ぐらいのノリで反論してほしかったですね
      →たしかにそういったやり方もあったかもしれませんね。ただ僕はその方法では対立しか生まず、あまりに非生産的だと思ったので、もう一段階踏み込んで、山だけではないもう少し普遍的な話にしたかったので、文章化させてもらいました。

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